第4回 ハン・ガン『ギリシャ語の時間』
24年12月8日(日)15:00~17:00 恵比寿の喫茶店にて
ハン・ガン、斎藤真理子訳『ギリシャ語の時間』(晶文社)を課題本に読書会を開催しました。
<あらすじ>
ある日突然言葉を話せなくなった女は、失われた言葉を取り戻すために古典ギリシャ語を習い始める。ギリシャ語講師の男は次第に視力を失っていく。ふたりの出会いと対話を通じて、人間が失った本質とは何かを問いかけていく。
3年ぶりの開催で、緊張していたのですが
みなさんのおかげで、温かい雰囲気のなか率直に語り合えた回になったと思います。
今回、初めての試みとして
「読書会に参加して変わったこと、変わらなかったこと」をテーマに
各自、読書会後に考えてもらうワークを任意でお願いしました。
一言コメントを添えつつ、ご紹介します。
※ネタバレ注意
◆ りえ
◆ 川村葉子さん
<一言>
”メガネ”は本作に出てくる重要な小道具で、”芯”は『菜食主義者』の野菜のイメージから、膨らませてくれました!
確かに、他人のメガネをかけたときの、景色がぐらつく感覚を味わえますね。
◆ りりこさん
<一言>
本作を読むと、眠っていた感覚や痛みへのセンサーが呼び覚まされるような気がしますよね。
白黒つかない気持ちをそのままにしてもいい、という感想、素敵だなぁと思いました。パンダかわいい!
◆ 島田哲明さん
「りんごの匂いのようなせっけんの香り」が子どもに対する一種のグルーミングかもしれない、という参加者の方の意見にハッとさせられ、自分の考えが変わりました。
(確かに少なくとも「悪の夫に引き裂かれた母と息子」という単純な話ではない)
一方で、りんごの匂いのような幼児用のせっけんの香りは、視力を失いつつある男にとって、触れ合った女の印象としてこれからずっと残り続けます。子どもを失いつつある女が子どもと共にいた象徴であるその匂いを、男は彼女の固有のものとして、あるいは彼女の一部として、まるごと引き受けることになる。それは優しく温かい帰結のようであり、一種の救いのように感じました。その考えは今もなお変わりません。
すなわち、グルーミングになり得るかもしれない危うさと、生きることへの赦しのような優しさが、りんごのせっけんの香りの中に同居している。この「どちらとも取れる」が違和感なく並び立ち、時に「どちらをも包含する」が成り立って小説世界の全てに及んでいるのが、この作品そのものであると感じました。
<一言>
りんごのせっけんの香りごと女を受け入れる男や、その関係性を想像したら、うるうるしてきました。
ハン・ガンが本作を「生きることへの明るい答え」と表現していたのが初読時にはしっくり来なかったのですが、改めて救いを感じられました。
◆ 青木さん
ギリシャ語の時間に顕れる痛み(こう書くことは適切でないかもしれない。重さ、暗さ、冷たさを包含した意味の観念として)は
おそらく理解しきれてはいないのだろうが、私にとって少し馴染みのあるものだった。
生来向いているものか、後天的なものかはわからないが。
変わらなかったこととしては、それでも不随意の明日は来るという少しの諦念があり、
(「月曜日の働きたくなさ」を高尚に言い換えています)
変わったこととしては「まあみんな何かを失っているよね」という世界に対する少しの譲歩があるように思う。
作中の男と女は部分的に私達であって、かつて失ったものを朧気に想起させた。
私の中で痛みの観念が深く、多義的になることで、私は前よりも誰かの痛みに気付けるかもしれない。
言葉の輪郭をより把握することでその縁の鋭さで誰かを傷つけなくて済むのかもしれない。
それはある種自己満足だとしても、
もしかしたら私は少しだけ優しい人間になれるのではないかという希望を少しばかり得ることが出来たように思う。
<一言>
文章を読んで、本作はなにかを失った経験を積んだ大人になってからの方が味わい深いよな、と思いました。
各々、男と女の要素を部分的でも抱えているからこそ、痛みが染み入りますね。
・・・・・
参加者以外に、感想を寄せてくれた方が2人いらっしゃいました!
せっかくなので、共有させてもらいますね。
◆ 浦野さん
東京小説読書会、ノーベル文学賞を見守る会の主催者
人はなぜ過去に囚われるのか
―ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)を読んで―
今は過去の影響下にある。
当たり前すぎて、ふだん意識することのないこの事実を、独特なかたちで表現するのがハン・ガンだ。ノーベル文学賞の選考委員もこの点を指摘している。しかも『少年が来る』『別れを告げない』など歴史的事件を扱った小説だけでなく、現代を舞台にした小説においても、ハン・ガンは「今は過去の影響下にある」ことを印象的に描いている。
中でも最高に過去に囚われている小説が『ギリシャ語の時間』だろう。この小説、もしかしたら全体の半分以上が回想で占められているのではないか? タイトルになっている古典ギリシャ語を指して、作中で〈数千年前に死んだ言語〉(p140)と言っているのも象徴的だ。主人公の「彼」「彼女」とも、なぜそこまで過去に囚われているのか。
「彼」は目が見える状態から見えなくなる状態へ向かっている。一方的な下降線だ。それゆえ“昔はよかった”系の回想が多くなるのは理解できる。が、その想いが向かう先がいただけない。20年も前にフラれた片思いの女性、自ら距離をおくこととなったドイツ時代の同級生、離れて暮らす妹などに執着するばかりで、過去にすがり過ぎている。実は私もノスタルジー人間で、中学生の頃は小学5年生当時を、高校生の頃は中学2年生当時を懐かしんでいたことを鮮明に記憶している。いまだに高校2年生の頃を、当時の世相とともに懐かしむほどだが、執着はしていないつもりだ。そもそも当時付き合っていた人たちに向け、脳内で手紙をしたためたことはない。私のノスタルジーは、むしろ「彼女」の心境に近いと思う。
「彼女」は高校時代に場面緘黙(かんもく)症を発症している。このときは克服し、のちに結婚・出産しているが、1年ほど前に再発して休職・離婚している。「彼女」の半生は下降→上昇→下降というカーブを描いている。「彼」とは違い、この先も下降し続けるとは限らず、状況が好転するかもしれないという期待を持てる。そのせいか、過去は過去だと割り切っているフシがある。親権を奪われた一人息子に対しても、少なくとも私が読む限り、執着心はそれほど感じられなかった。手の中からするりと抜け落ちてしまったことへの悲しみは伝わってきたが、「彼」に比べたら、そこに後悔の念はないように感じられる。物事なるようにしかならないし、人生をやり直しても結局は同じところでつまずく。そんな悟りに近いものを、「彼女」の回想からは感じる。
2人の心境の違いは、「どのように現在地へたどり着いたのか」によっても推し量ることができる。「彼」は青年期より過ごしたドイツで、周囲から異質な存在として見られることに耐え兼ね、「視力を失うのであれば母語に囲まれた土地で」と、心配する親を振り切って単身帰国した。古典ギリシャ語をはじめたのも、ドイツの地で同級生に勝てる数少ない教科だったのがきっかけだ(ただし故国を離れる14歳のとき仏教にハマり、その後西洋哲学に惹かれていった「彼」が、古典ギリシャ語で書かれた言葉の数々に居場所を見つけたのは納得できるし、彼の向学心には賛辞を送りたい)。
一方の「彼女」のほうも〈言葉を失ったのは特定の経験のせいではない〉(p197)と言うほど、たくさんの出来事や心ない言葉に傷つけられ、追い込まれていた。しかし自ら進んで、それまでの人生で一度も接点のなかった古典ギリシャ語に居場所を見いだした点で、「彼」とはモチベーションがまったく異なる気がした。「彼女」は飛躍できる人物なのである。そのことが人生を好転させてくれるかもしれない。
しかし「彼」は違う。過去に囚われ過ぎだ。「彼」が飛躍できないのは、過去を乗り越えられないからだろう。あるいは飛躍できないから過去に固執しているのか。もちろん過去があっての現在なのだが、過去は執着するためにあるわけではない。何もここで「過去は反省するためにある」などと、ビジネス書チックなことを言うつもりはない。「彼女」が、ハングルを覚えたての3歳の日だまりでの記憶を大切にし、折に触れ思い返すように、今に疲れたときに一息つけるオアシスとなりうる過去を大切に想うべきではないか。変えたい過去を何度思い返してもむなしくなるばかりだ。そうした生き方がよろしくないことは、「彼」の残念な性格が物語っている。
……ここまで「彼」のことを悪しざまに書いてしまったが、そもそも私は第5章で未練たらたらの気持ち悪い手紙(おそらく実際に執筆したものではなく、脳内で下書きをした程度のものだろうが)を読まされてから「アンチ彼」になってしまい、その反動で「彼女」のほうを応援したい気持ちになっている。
「彼」が行動力を発揮したのは、古典ギリシャ語で詩を書く「彼女」に見せてほしいと迫ったシーンだけではないか? このときは「彼女」に逃げられてしまい、後日メガネを落として割ったシーンから先は、基本的に「彼女」主導でコトが運んでいる。下降するばかりの「彼」にプラスのモチベーションを求めるのは酷かもしれないが、終始「彼」のダメさと「彼女」の強さが目立つ読書体験となった。「彼」のほうに、もう少し前向きな何かがあればよかったのだが……。
ちなみにこのラストのくだりに関して、カバー袖のあらすじに〈ふたりの出会いと対話を通じて、人間が失った本質とは何かを問いかける〉とあるのが何を指しているのかわからなかった。本作が問いかける、人間が失った本質とは? 読書会に参加できたら、この部分を皆さんに聞いてみたいと思った。
*
さて、プロットとしては、「彼女」が言葉を取り戻すという安易なハッピーエンドにしないでほしいと思いつつ読み進めたが、ラストシーンは「彼女」が言葉を発しようとする場面で終わっていて、さすが!と唸ってしまった。作品全体も「彼」の一人語りで始まり、三人称のパートが長く続いて、最後の最後で「彼女」の一人語りへ移行するという構成が実にうまいと思った。
詩的な表現が多いのも魅力だ。実際、「彼女」が読む詩が登場しているほか、後半に進むに連れ反復表現が増え、読者に畳みかける熱を感じた。中でも198ページで語られる「和解できないものたちのありか」と、217ページから3ページにわたって続く「彼が知り得ないもの」に関する畳みかけは読んでいて心地良く、さすが詩人だと思った。こうした表現をする作家は、現代の日本にいないのではないか?
キーフレーズを繰り返し登場させるのもハン・ガン作品に共通する特徴だ。本作では終盤で「彼」が「彼女」に〈聞いていますか〉〈聞こえます?〉〈聞こえますか?〉と繰り返すのが印象的だ。
そして詩的な表現で特に美しいと感じたのが、2人が言葉に寄せる思いを回想するシーンだ。「彼女」は3歳でハングルを覚え、庭の光の中で発音の微妙な違いに気づく。「彼」は古典ギリシャ語の複雑な文法の中に居場所を見つける。「特定の言語のなかに居場所を見つける」という表現は、言語表現を追求し続けるハン・ガンに特有の感性だと感じた。しかもハングルもギリシャ文字も特定の半島でしか使われず、周辺から孤立して存在しているというのも、何やら意味深いものを感じた。
また今回、ほかのハン・ガン作品も読んでみたが、各作品に共通するモチーフが多いことに驚かされた。たとえば本作で「彼女」は息子から「かなしいゆき」というインディアンネームを付けられていて、これと同じ逸話が詩集『引き出しに夕方を閉まっておいた』にそのまま登場する。幼少期に飼った愛犬の死は『別れを告げない』にも出てくる。鳥、雪、夢はすべての作品に登場すると言っていいほどだ。
特定の作家の作品を短期間に集中して読んだ経験は読書人生で初めてのことで、こうした読書によって気づかされることがいかに多いか、思い知らされた。これまでの「広く浅く」もいいが、「より深く」こそが読書の醍醐味なのだと気づかされた。
<一言>
男のキモさ指摘を読書会で共有したところ、男性陣からは生々しいキモさが足りない、きれいすぎる面があるといった意見が出ました。笑
読書態度が「広く浅く」から「より深く」へ変化しつつあることに、感動しました。転換するきっかけが、ハン・ガンでなんだか嬉しいです。
◆ ユウさん
今回参加してくれた青木さんのお友達でNY在住
※インタビュー形式。
<>内は青木さんの発言です。
I feel the author is really good at describing the pains or the feelings. Describing abstract emotions by using really vivid and detailed simile or metaphor.
著者は非常に痛みや、そういった感情の表現に優れていますね。
比喩やメタファーによって、感情が鮮やかに描写されていると思います。
And I kind of can understand why the heroine wants to learn another language and the part of Greek which she’s fascinated with. The grammar part.
そして、私はある意味において
「なんで彼女が他の言語、ギリシャ語に魅了されるのか」はわかるような気がしました。
特に文法の部分。
Anyway, it’s interesting to read a book like this
とにかく、このような本を読むのは面白いですね。
<物事は本来、文字で100%表せるようなものではなくて、私達はto communication,
仕方ないから文字を使っているという話もしました。彼女のsilenceはWittgensteinの
"Whereof one cannot speak,thereof one must be silent."を少し意識させませんか?>
So I feel the author wanted to talk about something larger than love, pain, something at the level of Buddhism. But to me I feel those delicate and detailed descriptions of feelings and abstract emotions kind of distracted me. I personally prefer more straight forward and heavier style when someone talks about metaphysic. Or maybe it’s because I don’t quite understand metaphysics that if the paragraph is more on literary side, I would be distracted since that’s another type of beauty.
だから作者は、愛や痛みよりももっと大きなもの、仏教のレベルの何かについて語りたかったのだと感じる。 しかし、私には、感情や抽象的な感情についての繊細で詳細な描写が、私の気をそらしたように感じられた。
個人的には、形而上学を語るなら、もっとストレートで重い文体の方が好きだ。 あるいは、私が形而上学をよく理解していないせいで、パラグラフが文学的な側面が強ければ、それは別のタイプの美なので、気が散ってしまうのかもしれない。
<なるほど I understand that feeling
哲学、仏教の思想があるけれど
describes it selfはpoetic and full of beauty でしたね。
多分、それが皆も話していた分かりづらいの原因かも。>
I like the book switching the point of view between the man and the woman and the words used to describe their thoughts and feelings are really different that I can feel their personalities. But sometimes the words chosen are just bit too elegant for me I guess. I read about this kind of style from 乙一 and I like his style of rhythms better I guess?
男女の視点が入れ替わり、二人の考えや感情を表現する言葉が実に違っていて、二人の個性が感じられるのがいい。
ただ、時々選ばれる言葉が私にはちょっと上品すぎるかな。 乙一のこのような作風を読んだが、私は彼のリズムの作風の方が好きかな?
<なるほどそれも面白い意見です。
May I share some of your 感想
to the headmaster of this読書会?>
え、いいですか??褒めてないよ
I can resonate with all the feelings described in the book but sometimes I have a feeling that the sentences are too decorated that distance me a bit. I don’t know. I like those similes and metaphors but just, a bit too much of playing with those beautiful words to me. Maybe it’s the translation doesn’t work really well.
この本に書かれている気持ちにはすべて共感できるのだが、時々、文章が装飾的すぎて、少し距離があるような気がする。
どうだろう。 例え話や比喩は好きなんだけど、ちょっと、美しい言葉で遊びすぎな気がする。 翻訳がうまくいっていないのかもしれない。
<その話もしました。小説というにはslightly too poeticと。>
ハハハ、そうなんですか!
There’s someone sharing the same thought as mine! 良かった!
Don’t want to feel that I’m too mean.
私と同じ考えを持っている人がいる! 良かった。
意地悪だと思われたくない。
I like her being poetic and describing really abstract things using similes and metaphors. But to me I feel those sentences can be a bit shorter or more concise I guess. Like in Ikebana we want to have space, lines, flowers, but we won’t have it everywhere. And trimming is an important part when doing ikebana so.
私は彼女が詩的で、比喩や隠喩を用いて本当に抽象的なことを描写するのが好きだ。
でも、私にとっては、それらの文章はもう少し短く、あるいは簡潔であってもいいように思う。 生け花のように、空間や線、花を表現したい。 トリミングは生け花をする上で重要なことですから。
<なるほどユウには、for poem,俳句の方が好みかもしれませんね。>
そうね、but I also like the western style that describes feelings and emotions in detailed, which makes it like a scene.
I love her being so sensitive to those feelings that I never found a word to describe. So creative and vivid. And after I read those sentences, I know she’s right.
しかし、私は、感情や感覚を細かく描写する、まるで情景のような西洋的なスタイルも好きだ。
表現する言葉が見つからないような感情に敏感な彼女が大好きだ。 とてもクリエイティブで生き生きしている。 そしてその文章を読んだ後、彼女の言う通りだと分かるんだ。
<そうですね Even same emotion with author's one exists in my mind,but before reading, those were unnamed and indefinite
著者の感動と同じものが私の心の中にもあるが、読む前は、それらは無名で不定形なものだった。>
そうそう。
まあ、いろんなことを思い出しました笑
<ユウの感想が聞けてとても嬉しいです>
The Vegetarian is quite sarcastic and feminism. Interesting.
Not sure about Japan but my Korean friend told me that in his grandmother’s generation, women can’t sit with men to have meals.
『菜食主義者』はかなり皮肉屋でフェミニズム。 面白い。
日本のことはわからないけど、韓国人の友人に聞いたところ、彼のおばあさんの世代では、女性は男性と同席して食事をすることはできないそうだ。
『菜食主義者』を読み切りました。
And combining with ギリシャ語の時間I kind of understand why ギリシャがの時間was that style.
ギリシャ語の時間がどうしてあのスタイルなのかわかった気がする。
Previously I said her description about feelings was a bit distracting. Now I feel she was aiming to talk about pain, or sorrow, something much bigger than the story itself. And those things were like electric field that we can’t observe it directly so people as just media or objects for observation. So I feel that she’s describing that invisible “pain” through various angels(people). The story itself is like an event, for observation.
前回、私は彼女の感情描写が少し散漫だと言った。 今になって思うのは、彼女は痛みとか悲しみとか、物語そのものよりももっと大きなものを語りたかったのではないかということだ。
そして、それは電界のように直接観測することができないものであり、人は観測のためのメディアや対象でしかない。 だから、目に見えない "痛み "を、さまざまな天使(人)を通して描いているような気がする。 物語そのものは、観察するための事象のようなもの。
<本は痛みを描くきっかけや契機ということですか。>
うーん、it’s like we are more like a detailed description of various abstract feelings.
私たちは、抽象的なさまざまな感情を詳細に描写しているようなものだ。
<うん、それはよくわかります。>
Since the ギリシャ語の時間is actually after The Vegetarian. And she had that 雰囲気 in The Vegetarian and that 雰囲気 became quite obvious in ギリシャ語の時間
ギリシャ語の時間は『菜食主義者』の後の作品だ。 そして、彼女は『菜食主義者』の中でその雰囲気を持っていた。
<だからこそ私達の人生にもthe pain described in the story を感じることがありますね。>
うーん、最初から感じたの?
すごいなぁ。
<確かに物語を掴むには複数読まないと雰囲気がわからないときがありますね。
ギリシャ語の時間は表紙がpop colorだったから内容にadjust myselfするのが大変でした。>
分かりますw
<一言>
表現が上品すぎるときがあるという視点、なるほど! と思いました。
『別れを告げない』は本作同様、美しく詩的な文体でありつつ、叙述的な表現が増えているので、しっくりくるかもしれないです。
・・・・・
以上となります。
読書会・二次会にご参加いただいた方、ご興味もっていただいた方、本当にありがとうございました。
次回は2月に開催予定です。
みなさんのご参加お待ちしています!
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